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第28話 分岐点

Author: 雫石しま
last update Last Updated: 2025-10-09 07:30:52

 睡蓮は出勤する伊月の車に同乗し金沢大学病院を受診した。

ピンポーン 「115番の方6番診察室までお入り下さい」

 睡蓮の足は震えていた。伊月の書いた紹介状は女医の手に渡った。

「えーー、叶 睡蓮 さん」

「はい」

「呼吸器内科の田上医師からの紹介状を頂きました、産科婦人科の森田です。以降担当させて頂きます」

 生まれて初めて座る産科婦人科の椅子には程よい硬さのドーナツ型クッションが置かれていた。

「よろしくお願い致します」

「はい、よろしくお願い致します」

 ベリーショートヘアの溌剌とした雰囲気は木蓮を連想させた。

「今回はどうされましたか」

「難病性気管支喘息患者の妊娠出産についてです」

「叶さんも、あぁ.......そうですね」

「はい」

 元町はパソコンモニターの前でマウスをクリックした。程なくして睡蓮の通院履歴と病状、処方箋の一覧が表示された。

「通院歴は...........長いですね」

「大丈夫でしょうか」

「発作も頻繁に起きていますね」

「はい」

 規則的にリズムを刻む機械音、白い壁、行き交う看護師、医師の白衣。睡蓮にとって見慣れたはずの光景が全く違って見えた。

「そうですか」

「内診致します。専用の下着を履いてお掛け下さい」

「はい」

 壁一枚隔てた隣の診察室からは胎児が順調に育っていると診断され安堵する妊婦の声が聞こえて来た。背後に感じていた待合室の音が消えた

 何処までも青い空、白い雲、睡蓮は大きく息を吸い込み和田家母屋のインターフォンを鳴らした。睡蓮の目の前には職務を切り上げた雅次がソファーに浅く腰掛け、震える指でカップソーサーをテーブルに置く百合の姿があった。

「ブライダルチェックを行わなかった私の不注意でした」

「そんな..........ちゃんと調べたの」

 睡蓮は深々と頭を下げたまま微動だにしなかった。

「うちの跡継ぎはどうなるんだ」

「申し訳ございません」

「この事は雅
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     荘厳なパイプオルガンが響きマホガニーの扉が大きく開いた。蓮二の肘にウェディンググローブの指を添えた木蓮が深紅のバージンロードを静々と進んで来た。胸元が大きく開いた白銀のウェディングドレスは腰から裾に掛けてリボンが折り重なり、ヘッドドレスにカサブランカの白い花弁が咲き乱れた。「汝、和田 雅樹は、この女、叶 木蓮を妻とし、良き時も悪き時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」「誓います」「汝、叶 木蓮は、この男、和田 雅樹を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、夫を思い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻のもとに、誓いますか?」「誓います」 左の薬指に輝くプラチナの結婚指輪。荘厳なパイプオルガンが2人の門出を祝う。雅樹の離婚から3ヶ月という事もあり結婚式は近しい身内だけで挙げた。「返して」 木蓮が新居のマンションに移り住む荷造りをしていると部屋の扉が音を立てた。その声は睡蓮、扉を開けると仁王立ちでこちらを睨んでいる。木蓮が何事かと怯んでいると睡蓮は無言で手を差し出した。「な、なによ」 「返して」 「なにを」 睡蓮は段ボール箱から顔を出した焦茶のティディベアを指差した。「なに、あんたもう要らないって投げ付けたじゃない」 「九州に連れて行くから返して」 「分かったわよ、ちょっと待ってなさいよ」 木蓮が後ろを向いてしゃがみ込むと背中に温かいものを感じた。「ありがとう」 睡蓮が木蓮の背中を抱きしめていた。「ちょっ.......ちょっとやめてよ、恥ずかしい!」 「ありがとう」 「なんの事か分かんないけれど........どーいたしまして」 涙が背中を伝いしんみりしていると睡蓮は突然立ち上がった。「.......返して」 「なに、まだなんかあるの」 「そのくま、返して」 その指はベージュのティディベアを差していた。「なに、あんた執念深いわね」 「それは私のティディベアなの」 「はいはい、ベージュと焦茶抱えて九州に行きなさい」 木蓮はダンボールの奥からベージュのティディベアを取り出すとポンポンと形を

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